تسجيل الدخول会計を済ませて喫茶店を出ると、午後の日差しは少し傾き始めていた。
店内ではあまり意識しなかったけれど、外へ出ると空気が少し涼しい。私はバッグの持ち手を直し、朝倉さんと並んで書店の方へ歩き出した。
「今日はありがとうございました」
私が言うと、朝倉さんは首を横に振った。
「こちらこそ。突然誘ってしまいましたけど、来ていただけてよかったです」
「最初は少し驚きました」
「そうですよね。書店で偶然お会いしただけでしたから」
「でも、嬉しかったです。前から行っていた喫茶店なのに、今日はまた違う楽しさがありました」
そう答えると、朝倉さんは少し照れたように笑った。
「そう言っていただけると、誘った甲斐があります」
私たちは信号の手前で足を止めた。
向かいの歩道には買い物帰りらしい人がいて、近くの花屋では店員さんが店先のバケツを片づけ始めている。
いつもと変わらない休日の午後。
その景色の中で、私
会計を済ませて喫茶店を出ると、午後の日差しは少し傾き始めていた。 店内ではあまり意識しなかったけれど、外へ出ると空気が少し涼しい。私はバッグの持ち手を直し、朝倉さんと並んで書店の方へ歩き出した。「今日はありがとうございました」 私が言うと、朝倉さんは首を横に振った。「こちらこそ。突然誘ってしまいましたけど、来ていただけてよかったです」「最初は少し驚きました」「そうですよね。書店で偶然お会いしただけでしたから」「でも、嬉しかったです。前から行っていた喫茶店なのに、今日はまた違う楽しさがありました」 そう答えると、朝倉さんは少し照れたように笑った。「そう言っていただけると、誘った甲斐があります」 私たちは信号の手前で足を止めた。 向かいの歩道には買い物帰りらしい人がいて、近くの花屋では店員さんが店先のバケツを片づけ始めている。 いつもと変わらない休日の午後。 その景色の中で、私はさっきまでの会話を思い返していた。 朝倉さんが、私と普通に話してみたかったと言ってくれたこと。 自分から誘ったのだから、気にしなくていいと言ってくれたこと。 どちらも、私には嬉しかった。◇「また、あのお店に行きたいです」 信号が青に変わって歩き出した時、私は自然にそう言っていた。「そうですね。また機会があれば」 朝倉さんは穏やかに頷いた。 私はその返事を聞きながら、少しだけ考えた。 また機会があれば。 便利な言葉だと思う。 次の予定を決めなくてもいいし、相手に負担をかけることもない。社交辞令として使うこともできるし、本当に次を楽しみにしている時にも使える。 以前の私なら、そこで会話を終わらせていただろう。 相手が次の予定を提案してくれるまで待つ。自分から誘って断られたらどうしようと考え、曖昧な言葉の中に気持ちをしまっていたと思う。 でも、今日は少し
喫茶店の壁に掛けられた時計は、午後三時を少し回っていた。 窓際の席には柔らかな日差しが残っていて、向かいに座る朝倉さんの横顔を明るく照らしている。プリンの皿は空になり、コーヒーも残り少なくなっていた。 そろそろ帰る時間だろうか。 そう考えてから、私は自分が少し名残惜しく感じていることに気づいた。 今日は小冊子を買うために書店へ来た。朝倉さんに会えるかもしれないとは思っていたけれど、こうして一緒に喫茶店に入ることになるとは予想していなかった。 だから、この時間が終わるのを惜しいと思うことにも、少し戸惑っている。「藤崎さん?」 朝倉さんに声をかけられ、私は顔を上げた。「何か考え事ですか?」「あ、いえ。そろそろ帰る時間かなと思って」 そう答えると、朝倉さんは壁の時計を見た。「そうですね。もう結構話していましたね」「はい。思っていたより時間が経っていて、少し驚きました」「僕もです。今日は写真の話をほとんどしていないのに」 朝倉さんが笑うので、私もつられて笑った。「プリンの話はしましたけど」「それは重要な話でしたね」「はい。かなり」 以前は、相手と過ごす時間を楽しくしようとして、会話を途切れさせないことばかり考えていた。けれど今日は、話題を探すために無理をした覚えがない。 朝倉さんも自分の話をしてくれたし、私も休日の過ごし方を話した。特別な出来事があったわけではないのに、もう少し一緒にいたいと思っている。「藤崎さんは、休みの日に一人で出かけることが増えたんですよね」 朝倉さんが、コーヒーカップをソーサーへ戻しながら言った。「はい。前はあまり出かけなかったんですけど、最近は気になる場所があったら行ってみようと思うようになりました」「工房もそうでしたね」「最初はかなり緊張しました。駅から歩いている間、本当に道が合っているのか何度も確認してしまって」「僕も初めて行く場所では同じこと
書店を出ると、午後の日差しが歩道に落ちていた。「この近くに、静かな喫茶店があるんです。行ったことはありますか」 朝倉さんに聞かれて、私は少し考えた。「もしかして、角を曲がったところの古いお店ですか?」「はい。木の看板があるところです」「あ、あります。前に一度、一人で入りました」「そうなんですね」「プリンを食べました」 朝倉さんが笑った。「固めのプリンですよね」「そうです。朝倉さんも知ってるんですね」「何度か行っています。コーヒーがおいしいので」「私、プリンしか覚えていませんでした」「それも十分な記憶だと思います」 私たちは並んで歩き出した。 以前、一人で歩いたことのある道を、今日は朝倉さんと歩いている。ほんの数分の距離なのに、隣に誰かがいるだけで、見慣れた景色が少し違って感じられた。「そういえば、工房の帰りにパン屋さんへ寄れましたか」「寄れました。シナモンロールとミルクパンを買ったんですけど、どちらもおいしかったです」「よかったです。おすすめしておいて、お口に合わなかったらどうしようかと思っていたので」「大丈夫です。むしろ、次に行く理由ができました」「それなら安心しました」 信号が青に変わり、私たちは横断歩道を渡った。 何でもない会話をしながら歩く時間が、思っていたより自然だった。◇◇◇◇ 喫茶店の扉を開けると、コーヒーの香りがした。 以前来た時と同じ、少し暗めの照明。木製のテーブルと、壁に掛けられた古い時計。 店員さんに案内されて、私たちは窓際の二人席に座った。 向かいに朝倉さんがいる。 それだけで、私は少し緊張した。 展示室では、いつも写真を見ながら話していた。工房では器があったし、書店では本があった。 でも今は、テーブルの上にメニューが二冊あるだけだった。「何にしま
朝倉さんから小冊子の案内が届いて、最初の週末になった。 私は午前中に洗濯を済ませ、昼食を食べてから出かける支度を始めた。 書店へ行く。それだけなら、もう特別な外出ではない。仕事帰りにも休日にも何度か足を運んでいるし、店員さんとも顔見知りになった。以前は少し緊張していた入口も、今では自然に扉を開けられる。 それでも今日は、いつもより服を選ぶのに時間がかかった。 小冊子を買うだけなのだから、普段着で十分だと思う。けれど、もし朝倉さんに会えたらと考えると、少しだけ気に入った服で出かけたくなった。 クローゼットから淡いクリーム色のニットを出し、紺のスカートと合わせてみる。鏡の前に立つと、落ち着いた色合いが思ったよりしっくりきた。 私は小さなイヤリングをつけ、バッグを肩にかけた。 朝倉さんと会う約束をしているわけではない。でも、会えたら嬉しい。 最近は、その気持ちを無理に別の言葉へ置き換えなくなっていた。◇ 書店に着くと、入口近くの平台に小さな冊子が並んでいた。『棚の上で待つもの』 見慣れた写真が表紙になっている。 工房の棚に並ぶ器。窓から差し込む柔らかな光と、控えめに配置された文字。 スマホの画面で見るより、紙に印刷された写真は少し温かく感じられた。 私は一冊手に取った。 薄い冊子だったけれど、表紙にはさらりとした手触りがあり、ページを開くと写真と短い文章がゆったりと配置されている。 工房の作業台や乾燥を待つ器、焼き上がったばかりの鉢、窓辺に置かれたカップ。 どの写真にも、物が置かれている場所だけでなく、その前後に流れている時間が写っているようだった。 最後の方に、見覚えのある写真があった。 器が並ぶ棚。 工房で私が好きだと言った一枚だ。 その隣には、短い文章が添えられていた。『まだ使われていないものにも、そこへ至るまでの時間がある。これから誰かの暮らしへ向かうものを、未完成とは呼びたくない。』
朝倉さんと連絡先を交換してから、三日が経った。 その間、私は何度かスマホの連絡先一覧を開いた。 朝倉蓮。 きちんと登録されている名前を見て、少しだけ落ち着かない気持ちになる。 別に、何かを待っているわけではない。 朝倉さんは小冊子の正式な案内ができたら送ると言っていたし、それまでは特に連絡する用事もない。私から何か送らなければならない約束もしていなかった。 それなのに、スマホを開いた時、ふと名前を探してしまう。 そんな自分に気づくと、少し恥ずかしかった。 以前なら、こういう気持ちを持つこと自体に戸惑っていたと思う。 誰かからの連絡を楽しみにする。 何か話したいことが浮かぶ。 その人が今何をしているのだろうと、少しだけ考える。 そういう気持ちが、自分の生活を相手中心に戻してしまうのではないかと怖かった。 けれど、今は少し違う。 会社ではいつも通り仕事をしているし、帰れば夕飯を作る。先日買った副菜の本から新しい料理を試したり、週末の洗濯をいつ済ませようか考えたりもしている。 その中で時々、朝倉さんのことを思い出す。 今のところ、それくらいだった。◇◇◇◇ 木曜日の夜、私は丸いテーブルで夕飯を食べていた。 メニューは鶏肉ときのこの炒め物に、豆腐の味噌汁。淡い緑の小鉢には、昨日作ったにんじんのナムルを少しだけ入れてある。 副菜の本を参考にしたものだけれど、ごま油を入れすぎたらしく、思ったより香りが強くなってしまった。 それでも鶏肉の炒め物と一緒に食べると、案外ちょうどいい。 私は小鉢からにんじんを取りながら、次はもう少し細く切ってみようと考えていた。 その時、テーブルに置いていたスマホが震えた。 何気なく画面を見る。 そこに表示された名前に、箸を持つ手が止まった。『朝倉蓮』 私は一瞬だけ画面を見つめ、それから箸を置いた。 メッ
◆ 悠斗が一人で暮らすようになってから、台所の使い方は少しずつ変わっていた。 以前は料理をする場所というより、冷蔵庫から飲み物を取り出したり、真琴が用意してくれた食事を温めたりする場所だった。流しに食器が残っていても、翌朝には片づいているのが当たり前で、調味料がどこにあるかさえ曖昧だった。 今は違う。 仕事帰りにスーパーへ寄り、冷蔵庫の残り物を思い出しながら買い物をする。帰宅したら米を研ぎ、必要なら野菜を切る。食べ終えた皿は自分で洗い、翌朝のゴミ出しも忘れないように確認する。 どれも特別なことではない。 以前の真琴が、毎日していたことだった。 その事実を思い出すたびに、悠斗は自分がどれほど何も見ていなかったのかを実感する。 ただ、最近はそこから先の考え方が少し変わってきていた。 真琴は大変だった。 だから自分も家事を覚えなければならない。 最初は、そんな気持ちが強かった。 けれど、一人分の洗濯物を干し、夕飯を作り、散らかった部屋を片づける日々が続くうちに、ようやく分かってきたことがある。 これは反省のためにする作業ではない。 自分がここで暮らしていくために、必要なことなのだ。◇◇◇◇ その日の夕飯は、鶏肉と野菜の炒め物だった。 以前、高瀬から教えてもらった簡単なレシピを少し変えたもので、冷蔵庫に残っていたキャベツとしめじを使った。 鶏肉にはしっかり火が通っている。味つけも悪くない。 ただ、野菜から思った以上に水分が出て、少しべちゃっとしてしまった。「……まあ、食えるな」 悠斗は皿に盛りつけ、味噌汁と一緒にテーブルへ運んだ。 味噌汁には豆腐とわかめを入れてある。以前は味噌の量が分からず、薄すぎたり濃すぎたりしていたが、最近は計量スプーンを使わなくても、ある程度同じ味にできるようになった。 食べながら、ふとスマホに目が向く。 真琴に写真を送りたくなることは、今でもあった。
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
結局その日、私は一人でラーメンを食べて帰った。 本当はもっと洒落たものでも食べようと思っていた。 せっかく外食する気分だったし、少しくらい贅沢してもいいかなって。 でも店を探す気力がなくなってしまった。 駅前のラーメン屋に入り、カウンター席へ座る。「ご注文どうされますか?」「あ、醤油ラーメンで」 店員に答えながら、自分でも少し驚く。 私は本当は塩派だ。 でも悠斗が醤油好きだから、気づけば家でも醤油ばかり作るようになっていた。 私は箸を持ったまま、ぼんやり湯気を見つめる。 好きなもの。 最近、自分の『好き』がよく分からない。 ラーメンを食べ終えて店を出ると、夜風が少
食器を洗い終わった頃には、時計は十一時を回っていた。 悠斗はまだ帰ってこない。 私は濡れた手をタオルで拭きながら、なんとなくリビングを見渡した。 静かだった。 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。 こんなふうに一人でいる時間なんて、昔はいくらでもあったはずなのに。 最近は妙に落ち着かない。
玄関のドアを開けた瞬間、部屋が暗いことに気づいた。 午後九時過ぎ。 いつもならテレビの音がしている時間だった。 「……ただいま」 返事はない。 分かっていたことなのに、少しだけ肩の力が抜ける。 私はヒールを脱いで揃える。 その横には、朝履いていった悠斗のスニーカーが無造作に転がっていた。 ――また。







